著者:梶井基次郎
画:こみね
朗読:芹田美希
音声時間:17分
発行:オリオンブックス
提供:青空文庫
病で微熱が続き、憂鬱な気分がぬぐえない主人公。あるとき店先で見つけた檸檬に引き寄せられる……。
梶井基次郎の名作を、声優の芹田美希が朗読します。
こちらはボイス本と電子書籍のセット商品となっております。
芹田美希(せりた みき)
「お仕事の前は、キャラ作りから」がモットー。子供や少年役には定評あり。ボイスドラマなどの掛け合いも得意としています。ボイス本「にんぎょひめ」他、「ドラゴンクライシス」、アプリゲームの妹キャラ役などに出演。
得体の知れない不吉な塊が、私の心を始終押さえつけていた。焦躁(しょうそう)といおうか、嫌悪といおうか――酒を飲んだあとに二日酔いがあるように、酒を毎日飲んでいると二日酔いに相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私をいたたまらずさせるのだ。それで始終私は、街から街を浮浪し続けていた。
なぜだかその頃私は、見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりガラクタが転がしてあったり、むさくるしい部屋がのぞいていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵(ひまわり)があったりカンナが咲いていたりする。
時々私はそんな道を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて、京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して、誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団(ふとん)。匂いのいい蚊帳(かや)と糊(のり)のよくきいた浴衣(ゆかた)。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。願わくは、ここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると、私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
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